家康は熱田に住んでいた
天文16年(1547)、家康がまだ竹千代と呼ばれた6歳のときに、岡崎から駿河の今川氏へ人質に出されましたが、その道中で捕まり、織田氏の人質として織田信秀へ送られました。家康は熱田近く、加藤順盛(かとうお のぶもり)亭に預けられ、2年ほど幽居していました。
幼い家康が済んでいた屋敷は、熱田神宮から徒歩10分程度の場所にあるのです。
簡単に言うと、今でいう小学生低学年位のときに、熱田神宮近くに住んでいたという話です。
加藤順盛(かとうお のぶもり)邸跡には表札、石碑があります。
加藤図書(ずしょ)屋敷跡ともいわれます。
熱田時代の経験がその後の歴史を変えた
従属的な同盟関係で、実質的には家臣として仕えていた今川家を見限り、今川家の宿敵と尾張の織田信長と同盟を結びます。
同盟の理由は諸説ありますが、熱田時代に織田信長と出会い、その印象から、信長に親近感を頂いていたのも、理由の一つかも知れません。
織田信長と徳川家康が、熱田で出会ったという公式な記録はありませんが、好奇心旺盛で行動力もある信長ですから、近所に、隣国の大名の子息が人質として暮らしていることも当然、知っていたと思いますし、知っていれば、会いに行っていた可能性が高いと思います。なお、信長は、家康より9つ年上ですから、家康が小学生低学年位のときは、信長は高校生ぐらいの年代です。
兄貴分として優しく接したり、熱田神宮に一緒に参拝して、熱田の森で一緒に木登りしても遊んだ可能性も否定できません。
ドラマや小説などでは、そういった逸話はよく描かれます。
熱田区誌には、「1603年、家康は加藤家に140余石の土地を与えており、これは、人質として預けられた時の厚遇に感謝していたものと考えられ、家康のこまやかな配慮があったもの」という旨の記述があります。
加藤家の厚遇に報いたということは、家康も、熱田の地に、それ程、悪い思い出がなかったようです。そんな思い出も、徳川家康が、活躍の基礎となった清州同盟(織田信長と徳川家康の同盟)を結ぶきっかけの一つになったかもしれません。
徳川家康幼少期幽閉跡は、NHKのブラタモリという番組でも放送されていました。
以上です。