嘘だらけの日露近現代史 (扶桑社新書) を読んで、章毎に要約や所感などを記載します。
に続けて、
今回は「第二章 ロシア帝国の誕生」の章です。
第1節 「ウィーン包囲作戦」 -野蛮人がヨーロッパの仲間入り
バルカン半島、ハンガリーを支配していたオスマン帝国は、1529年の第1次ウィーン包囲に次いで、約150年後の1683年に大遠征軍を送り、神聖ローマ帝国ハプスブルク家の支配するオーストリアの都ウィーンを包囲し、攻撃しました。
オーストラリアは、ハンガリーを併合し、神聖ローマ帝国と称して、ヨーロッパのフランスと並ぶ大国でしたが、オーストラリア一国では、オスマン帝国には対抗できないほど、オスマン帝国の超大国でした。オスマン帝国は15万の大軍を編成し、1683年7月15日にウィーンを包囲しました。オーストリラは、ポーランド王国など他のヨーロッパ諸国の応援もあり、オスマン帝国軍を撃破しました。
この後、1710年にロシアは、当時のヨーロッパの大国ポーランドと、永遠平和条約という同盟条約を結び、ロシアもヨーロッパの大国として認知され始めます。
また、ウィーン包囲作戦に失敗したオスマントルコ帝国は衰退し始めて、ロシアは十数回に及ぶ露土戦争で、トルコの支配地域に侵略して勢力を広げます。
こんな情勢をこの節では、
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ここでロシアの法則発動です。弱いヤツはつぶす。
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ヨーロッパからは「野蛮なアジア人」として扱われながら、力を身につけるまでは耐えに耐え、好機をつかんだら一気呵成にことを起こす。見上げた根性と言うべきでしょう。
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と評しています。
第二節「ピュートル大帝」― 南へ東へ領土拡大を目論む
ピョートル一世(モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年 - 1725年))は、ピュートル大帝と呼ばれ、ロシアは正式に国名をロシア帝国を改めます。ロシアがヨーロッパの辺境の王国から、ヨーロッパ、アジアの広大の地域を支配する帝国となった時代です。
ピュートル大帝時代に、ロシアは、シベリア、太平洋地域に進出し、清国との紛争を始まりますが、ネルチンスク条約で、ロシアと清国の境界線などについて定めます。
また、トルコとの戦争では、自ら砲兵士官として前線で戦います。
そして、トルコとの戦争の後、1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らもピョートル・ミハイロフ という偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟への参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていました。
アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働き。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学しました。中でも歯科医療には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けて抜歯器具を買い込み、帰国後は廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くのを趣味にしたそうです。
第三節「大北方戦争」― モスクワがロシアになった日
ピュートル大帝は、カール12世率いるスウェーデンとバルト海の制海権、バルト海地域の支配権をめぐって争い、勝利します。
こんな大北方戦争の結末をこの節では、
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戦争の強さなら、ピュートル一世はカール12世と雲泥の差です。しかしピュートル一世には政治センスと外交能力がありました。戦争の強さは付随的です。
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と評しています。カール12世率いるスウェーデン軍は、ロシア領深くまで侵入し、戦闘でロシア軍に勝利しますが、ピョートル1世の焦土作戦により、ロシア領内を進むにつれてスウェーデン軍は補給にひどく苦しめら、その後、スウェーデンは外交的にも公私立し、スウェーデンはロシアに敗れます。
その後、ナポレオン率いるフランスとの戦争、ヒットラー率いるドイツとの戦争を予測させるようなロシアの勝ちパターンです。
外交も大事ですが、国土や人命がいくら犠牲になっても、勝つまで(外交で有利な状況になるまで)戦うという姿勢も大事なのかも知れません。
なお、
北方の原形 ロシアについて 司馬遼太郎著 (文春文庫)では、「ロシアにおけるすべては(農業や牧畜をのぞいて)ピュートルからはじまったといってよく、とりわけ、造船技術の導入が大きく、次いで大砲鋳造術の導入もきわだった業績であった」と、ロシア帝国のピュートル大帝の業績を評価しています。
以上です。