『洪思翊中将の処刑』-第2章 韓国系将校-を読んで

洪思翊中将の処刑 | 山本七平 著を読みました。その抜粋、要約、所感、関連する話題など紹介したいと思います。今回は「第2章 韓国系将校」についてです。

 

洪思翊中将の処刑

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大韓帝国皇帝の「軍人勅諭」の第六条

洪中将は生涯、光武四年(一九〇〇年=明33)六月十九日に発布された大韓帝国皇帝の「軍人勅諭」をもっていた。この勅諭は日本の「軍人勅諭」よりはるかに簡潔だが、日本の勅諭の「五ヵ条」が「六ヵ条」なので興味深い。いわば忠節・礼儀・武勇・信義・質素までは同じだが、「軍人ハ言語ヲ慎ムベシ」という第六条がある。

 

山本七平氏が、戦犯裁判で、一切の弁明が本人がしなかったのは、この第六条も精神も理由の一つかもと推測しています。

 

↑のWikipediaでも、洪思翊氏の出自や経歴など概要は知ることができます。

■洪思翊氏の初志

私がふと思い出したのは「遺書」とも言うべき洪中将の最後の手紙の一節であった。「……過去を回顧せば初志を貫徹したること一つとてなく誠に慚愧に堪えず……」――。これが、当時の基準ではすべての日本人が羨む超エリートコースを歩み、軍人社会で万人に羨望される階級に昇った人の言葉であろうか? これから見れば、洪中将の「初志」は、おそらく日本帝国陸軍の中将・大将になることではなく、別のことだったのである。


山本七平氏ははっきりとは断言していませんが、この初志とは、韓国の独立だったのかような記述にあふれています。


洪思翊氏は、金 擎天や池 青天といった独立運動家の家族を帝国陸軍の立場にもかかわらず、物心ともに援助した様子が描かれています。

 

金 擎天(キム・ギョンチョン)1888年6月5日生 - 1942年1月2日没):朝鮮の独立運動家。陸軍士官学校第23期生。洪思翊氏の先輩にあたる。京城において、1919年に抗日独立運動への参加を決意し、陸士後輩の池青天とともに国境を越え、満州沿海州で活動を行う。
白馬に乗って独立闘争をしていたこと、金将軍と呼ばれていたことなどから、金日成将軍伝説のモデルの一人であったといわれる。いわば本物の金日成である。
金光瑞(キム カンソ)が本名で、独立活動時代に名乗った金 擎天の方が著名。


池 青天(チ・チョンチョン1888年1月25日生 - 1957年1月15日没):朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。1946年に帰国し初代無任所大臣や民主国民党最高委員、制憲議員および第2代国会議員として活動。陸軍士官学校第26期生で洪思翊氏と同期。

 


韓国系大日本帝国陸軍将校(以下略して韓国系将校)の年次も、陸軍での学校での成績も最上位で、職位が最上位で、かつ、精神的な支柱だったようです。


李甲との関係は不明ですが、李甲の娘婿の李 應俊は洪思翊をとても慕っていたようで、洪思翊氏の逸話が紹介されています。
韓国独立後も活躍する金 錫源や李 鍾賛を物心ともに援助したようです。

 

李甲(イ・カプ):1877年生 - 1917年6月13日没):
陸軍士官学校第15期生。日本統治時代初期の抗日独立運動家。洪思翊の先輩にあたる。
1962年に建国勲章が追贈。

李 應俊(イ・ウンジュン、1890年8月12日生 - 1985年7月8日没):陸軍士官26期で、洪思翊氏の同期。独立運動家の李甲に拳銃を寄贈したことが発覚したが、不問に。李 甲と李 應俊は岳父、娘婿の関係。
最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては中将。
独立後は、朝鮮戦争でも活躍し、独立後は陸軍大学総長などを歴任。

金 錫源(キム・ソグォン 1893年9月29日生 – 1978年8月6日没)は、陸軍士官学校(日本)27期。最終階級は、大日本帝国陸軍では陸軍大佐、韓国陸軍では陸軍少将。朝鮮戦争での活躍はマッカーサーから賞賛された。韓国の国会議員も務める。

李 鍾賛(イ・ジョンチャ1916年3月10日 生- 1983年2月10日没):陸軍士官学校第49期生・最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては中将。朝鮮戦争開戦時は首都警備司令官。後に陸軍参謀総長、国防部長官。生涯、軍の政治的中立を強調したことから「真の軍人」と韓国内では評価されている。

 

初志は本人では果たせませんでしたが、彼の遺志は多くの人に引き継がれて、韓国の独立、今の韓国があるように思いました。

 

朴 正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日 生- 1979年10月26日没)は

1963年から1979年まで韓国の大統領(第5代から第9代)を務め、『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長を彼が成功させ、今の韓国があります。

良く知られているように、日本軍人にあこがれもあり、1940年に満州国陸軍軍官学校に入学し、満州国陸軍時に、陸軍士官学校第57期生として留学しています。

いわば、洪思翊氏の後輩にあたります。直接の関係ありませんが、韓国系将校の一人として、その精神的な支柱であった洪思翊氏の間接的な影響を受けているといえるのでないでしょうか。

 

 

■人を育てる

洪思翊の話を聞くと、人を育てるとは、具体的な研修や教育でなく、慕われるような人になることが大事で、慕われるような人をつくることが、育てることなのかもしれないと思いました。

 

■本について改めて紹介

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■冤罪に対し、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか?

日本・朝鮮・米国の歴史に翻弄されつつも、武人らしく生きた朝鮮人帝国陸軍中将の記録。

洪思翊は、大韓帝国最後の皇帝に選抜されて日本の陸軍中央幼年学校に入学、(朝鮮王家以外では)朝鮮人として最高位の中将にまで出世した人物である。
しかし終戦直後から始まったフィリピン軍事裁判で、フィリピンの捕虜の扱いの責任を一方的に問われ、死刑に処せられた。

太平洋戦争に従軍した山本七平が、
・洪思翊中将が、アメリカをはじめとする連合国の軍事裁判の横暴さに対して、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか。
・そもそも生活に困っていたわけでもない朝鮮人エリートが、なぜ日本軍に入ったのか。
・「忠誠」とは何か。
について問うノンフィクション。

■「あとがき」からの抜粋
だが、彼ら(アメリカ)にとってはこれが「事実」で、判決は同時にこの事実の確定なのである。ではこの「語られた事実」は果して「事実」なのか。ミー弁護人のいう「時の法廷」が裁くのはこの点で、裁かれているのはアメリカであろう。そしてこの「時」を体現していたかの如く無言で立つのが洪中将である。こういう視点で読むと、四十年前に行われたこの裁判はきわめて今日的であることに気づく。

著者 山本七平(やまもと・しちへい)

評論家。ベストセラー『日本人とユダヤ人』を始め、「日本人論」に関して大きな影響を読書界に与えている。1921年生まれ。1942年青山学院高商部卒。砲兵少尉としてマニラで戦い補虜となる。戦後、山本書店を設立し、聖書、ユダヤ系の翻訳出版に携わる。1970年『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。日本文化と社会を批判的に分析していく独自の論考は「山本学」と称され、日本文化論の基本文献としていまなお広く読まれている。1991年没(69歳)。

 

洪思翊中将の処刑

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