湯之上隆氏、国会で日本の半導体崩壊の歴史を語る(2021年6月1日衆議院・科学技術特別委員会)

▼目次

 

■はじめに

国会(衆議院)の科学技術・イノベーション推進特別委員会(令和3年:2021年 6月1日(火曜日))にて、科学技術、イノベーション推進の総合的な対策に関する件(我が国の半導体産業を取り巻く諸状況及び科学技術、イノベーション推進の今後の在り方について)について、参考人原山優子氏、中馬宏之氏及び湯之上隆氏から参考人としての意見を開陳し、その後、質疑を行われています。

湯之上隆氏の著書や意見はこのブログでも何度か取り上げていますが、
国会での参考人としての発言も半導体産業(半導体の材料や製造装置も含む産業)だけでなく、自動車産業など幅広い産業の将来に示唆を富む内容と思われるので、利用されたスライドの画像とともに、その内容を紹介します。

第204回国会 科学技術・イノベーション推進特別委員会 第4号(令和3年6月1日(火曜日))

といったサイトで、といったサイトで発言・質疑内容の議事録は公開されているが、プレゼンテーション資料とともに紹介されている記事でなかったので、資料とともにこのブログで紹介することで、多くの人にその内容が分かりやすく伝えられたら幸いです。

なお、動画は

衆議院インターネット審議中継

といったサイト(2021年6月1日 科学技術特別委員会で検索して表示)でご覧いただくことができます。

 

湯之上隆氏の著書

日本型モノづくりの敗北 零戦・半導体・テレビ (文春新書 942)

日本「半導体」敗戦

「電機・半導体」大崩壊の教訓

 

■パソコンから半導体の役割と種類を説明する

 

パソコンで説明する半導体

パソコンで説明する半導体 

 

 湯之上参考人 微細加工研究所の湯之上と申します。

 いただいたお題が、過去を振り返り、分析、反省し、その上で将来どうしたらいいんだ、こういうお題だったと思います。ですから、そのとおりのことをお話ししたいと思います。(資料を示す)

 ここにパソコンがあります。皆さん日々パソコンを使われると思うんですが、ここに様々な半導体が搭載されています。

 まず、プロセッサー。これは、シェア一位はインテルなんですが、半導体の微細化、十ナノあたりで失敗してしまって、TSMCに生産委託しようとしています。二位はAMDなんですが、これは完全にTSMCに生産委託して、インテルのシェアを脅かしています。

 それから、パソコン通信ができるということは、通信半導体が入っています。これは、主にアメリカのファブレスクアルコムが設計して、台湾のTSMCが製造しています。

 これらをまとめてロジック半導体と呼びますが、ここがTSMCが非常に強いところです。

 それから、パソコン通信をするとき、自分の画像が向こうに見えるわけです。ここに、画像センサー、CMOSセンサーというもの、これも半導体が入っています。これはソニーが出荷額では世界シェア一位なんですけれども、そのロジック部分は、自分で作らなくてTSMCに生産委託しています。だから、ソニーもTSMCなしにはあり得ない事態になっています。

 それから、NANDフラッシュメモリー。これは、データをたくさん蓄えておくメモリーです。電源を切ってもデータがなくなりません。一位はサムスンで、二位はキオクシア、元東芝メモリですね。

 さらに、電源アダプター。ACアダプターだけではないんですけれども、いろいろなところにパワー半導体というのが搭載されています。ここにはですね、このパワー半導体は、全部じゃないですけれども、一部TSMCが製造しています。

 さらに、もう一つメモリーがありまして、DRAMというもの。これは、プロセッサーと一緒になってワークを行う、ワーキングメモリーともいいます。一位はサムスン、二位はハイニックス、三位はアメリカのマイクロン。

 かつてここは非常に日本が強くて、過去、一九八〇年代の中旬には八〇%を独占していた時代がありました。ここに行ってみたいと思います。

 

 

■日本企業のDRAM事業の崩壊とともに歩んだ技術者人生を語る

DRAMのシェア推移 

DRAMの世界シェア推移 


これが、DRAMの地域別シェアを示しています。八〇年代中旬、本当に八〇%を占めていたんです。非常に強かった。産業の米という言葉はここで生まれました。

 このピークだった頃に、ちょうど僕は、日立製作所に一九八七年に入社して、半導体技術者になりました。最初は、中央研究所。ここでは、微細加工装置の研究開発を八年ほどやりました。次は、半導体事業部。ここは、DRAM工場、DRAMの生産技術に五年ほど携わりました。さらには、デバイス開発センタ。次世代のDRAMの開発をせよということで、次世代開発をやった。

 この頃になりますと、二〇〇〇年近くになりますと、日本のシェアはこんなに下がってしまって、韓国に抜かれて、日本は次々と撤退していきます。

 日立は、NECとの合弁会社エルピーダというのを設立しました。二〇〇〇年の頃です。NECから四百人、日立から四百人、出向社員八百人で形成された合弁会社です。僕は、ここに手を挙げて出向を志願しました。微細加工グループの課長として赴任しました。日本のDRAMを何とかしようと思ったわけです。ところが、ここで行われたのは、NECと日立の壮絶なバトルです。技術覇権争いです。僕は、そのバトルに敗れて半年で課長を降格となり、部下も仕事も取り上げられて、いられなくなっちゃった。

 次に行った行き先は、セリート。セリートというのは、つくばにできた半導体メーカー十三社が集ったコンソーシアムです。今もスーパークリーンルームというのが残っているんですけれども、ここで一年半、国家プロジェクトあすかに従って微細加工をやることになった。

 合計すると十六年ぐらい、半導体の微細加工、半導体の最も重要な技術に関わってきたわけです。

 ところが、二〇〇〇年にITバブルがあって、二〇〇一年に崩壊した。日立は、十万人の社員のうち二万人の首を切りました。そのとき、四十歳課長職以上は全員辞めてくれ、こういう退職勧告がなされました。課長職以上になると組合から脱退するので、切りやすいんですよ。

 僕は、たまたま四十歳課長で、エルピーダとかセリートの出向中の身なんですね。本社から見ると、顔が見えない切りやすい社員。何回も退職勧告を受けて、もう辞めざるを得ない状態になって辞めました。といっても、早期退職制度は使えなかったんです。次の行き先を探していたら早期退職制度を一週間過ぎちゃって、辞表を出しに行ったら、撤回はなしだよと、もぎ取られてしまって、自己都合退職になっちゃって、本当は三千万円ぐらいもらえるはずの退職金が、たった百万円になっちゃいまして、ちょっと今でも女房に怒られておるんですけれども、そういうのがあってですね。

 このように僕はDRAMの凋落とともに技術者人生を歩んじゃったんですよ、意図せずして。

 次に行った行き先は、同志社大学経営学の研究センター。同志社大学経営学の研究センターが新設されて、何で半導体がこんなになっちゃったの、かつて最強だったんじゃないの、これを研究してほしいというポストができて、推薦してくれる人がいたのでここに行きました。

 五年の任期付特任教授だったので、五年間研究をして、二〇〇八年、また舞い戻ってきて、現在、二〇〇八年以降はコンサルタントとかジャーナリストとして今に至っています。

 問題はここですね。何でこうなっちゃったの、過去、最強だったじゃない、それが何でこんなになっちゃうのと。

 

■DRAMのパラダイムシフト

結論を簡単に言うと、次のようになります。

DRAMのシェアとパラダイムシフト

DRAMのシェアとパラダイムシフト 

 これがDRAMのシェアです。この辺りが非常に強かった。

 もう一つグラフを出します。これは何かといいますと、日本のコンピューターの出荷額です。パソコンとメインフレーム、大型コンピューターですね、こういうもの。


 日本のDRAMというのは何用に使われていたのかというと、強かった頃はこのメインフレーム用だったんです。パソコンはまだそんなに世間に普及していなかった。このメインフレームメーカーはDRAMメーカーに何を要求したかというと、一切壊れないものを持ってこい、二十五年の長期保証だと。

 

 よく、DRAMというのはアメリカのインテルが発明したメモリーで、日本がそれを追い越したのはコストなんだ、安価だからだということが言われますけれども、違います。超高品質DRAMを日本は作っちゃったんですよ、本当に作っちゃったんです。だから、これは技術の勝利なんです。

 それは何でできちゃったのというと、例えば、トヨタ流の言葉で言えばカイゼンの積み重ね、経営学用語で言えば持続的イノベーションの積み重ね、こういうもので本当に作っちゃったんですよ。それで、世界を制覇したんです。この時代が長く続けば、僕は日立を辞めることはなかったと思います

ところが、時代は変わるんですよ。コンピューター業界にパラダイムシフトが起きた。メインフレームの時代は終わりを告げて、パソコンの時代がやってくるんですよ。パラダイムシフトが起きたわけですね。パソコンの伸びとともに急成長してきたのが、韓国です、サムスン電子です。

 サムスンはどういうふうにDRAMを作ったかというと、少なくとも二十五年保証なんて要らないよね、パソコンはよく使って十年、まあ五年だよね、三年もてばいいんじゃないの、ほどほどの品質保証でいいと。それよりも、パソコンは大量に要るんだと。大量に要る。しかも、メインフレームのように何千万円で売るわけにいかないんだ、せいぜい何十万円なんだと。このとき、メインフレーム用のDRAMというのは一個十万円とか二十万円したんですよ。でも、パソコン用だったら何百円じゃないといけないよね、だから安価に大量生産することが必要なんだと、サムスンはそのようにしたわけです。

 一方、このとき、本当に僕はDRAM工場にいたわけですよ。パソコンが出てきたことを知らなかったわけじゃないです。サムスンがシェアを上げてきたのも知っていました。僕も日本中のDRAMメーカーの技術者も知っていたんですよ。知っていて、なおかつ、相変わらず二十五年保証のこてこての超高品質DRAMを作り続けちゃったんです。それで、サムスンに敗れたわけです。

 これは、経営学用語で言うと、サムスンの破壊的技術に敗北したんです。技術の敗北なんです。

 

 

■日本企業は安く作る技術で負けた

 

マスク枚数で見る製造コスト 

マスク枚数で見る製造コスト 

 

ちょっとこれはなかなか説明するのは難しいんですけれども、DRAMというのはこんなような構造(筆者補足:上の画像の左下の半導体の構造を参照)をしています。ウェハー上に、トランジスタがあって、キャパシターがあって、配線がある、こういうものを作るんですけれども、縦軸は何かというと、マスク枚数と書いてありますが、これは微細加工の回数だと思ってください。何回、微細加工をやってこういう構造を作るんですか。当然、少なければ少ないほどコストはかからないんですよ。多ければ多いほど高価な微細加工装置を大量に必要とするんです。

 日立は二十九枚。東芝は二十八枚。NECは二十六枚。ところが、韓国勢は軒並み二十枚。アメリカのマイクロンに至っては十五枚、半分。これは明らかに技術の敗北なんですよ。こんなふうにして作っていたから、利益が出なくて、大赤字になって撤退せざるを得なくなったんです。技術の敗北なんです。

 

パラダイムシフトを起こしたサムスン

これをまとめると、次のようになります。

 

 

メインフレームからPCへのパラダイムシフト 

メインフレームからPCへのパラダイムシフト 

 

 八〇年代中旬は、メインフレーム用のDRAMを超高品質で作ることによって、日本は世界一になった。これは正しかった。でも、このときに、日本の開発センターや工場に、極限技術を追求する、超高品質を追求するという技術文化が定着していきます。でも、これは正義だったんです、これで世界一位になったわけだから。でも、定着しちゃうんです。

 九〇年代になって、パソコンの時代にパラダイムシフトが起きた。このとき必要だったDRAMの競争力は低コストなんです。このとき日本は作り方が全く変わらなかったんです。結果的に、そうすると、過剰技術で過剰品質を続けることになっちゃったんです。大赤字になって撤退するわけです。

 一方、サムスンは、適正品質のDRAMを低価格で大量生産して、トップになっていきました。安く大量生産する破壊的技術、これで日本を駆逐した。ここにはマーケティングなんというのもあったんですけれども。

 このエルピーダができたんですが、エルピーダは、超高品質の、こういう病気がもっとひどくなって重篤化して、倒産しちゃいました。

 日本は、軒並みSOC、ロジック半導体にかじを切ったわけです。製品変われど、病気も一切変わらなかった、治らなかった。

 

 

 

半導体地域別のシェアから見る日本企業の敗北

半導体の地域別シェア

半導体の地域別シェア

半導体全体を見ても、こんな感じです。

 これは半導体全体のシェアを示しています。やはり一九八〇年代に五〇%のピークがあります。これが、どんどんどんどんシェアが下がっていくわけです。いろいろ、これを対策しようと、あれこれやったんですよ。ちょっとこれはおいておいて、ここの辺りからですね。何かもう一つ一つ読むのも嫌なんですけれども、山のように対策したんですよ。国プロ、コンソーシアム、合弁会社経産省が主導して、何かもう数え切れないほどやったんです。実際、僕が所属したのは、このエルピーダとか、セリートとか、セリートを核としたあすかプロジェクトとか。これは実際、僕が自分でそこに在籍して経験したわけですけれども、何一つ成功しなかった。何一つシェアの浮上にはつながらなかったんです。大失敗。何でこうなっちゃうのと。全部失敗したんですけれども。

 

ここからの内容は次のブログ(↓)を参考にしてください。

 

chanmabo.hatenablog.com

 

以上

 

参考銘柄 日立 NEC ルネサスエレクトロニクス ソニー 東芝

日立6501 NEC6701 ルネサスエレクトロニクス6723 ソニー6758  東芝6502