『洪思翊中将の処刑』-第3章 忠誠-を読んで

洪思翊中将の処刑 山本七平 著を読みました。その抜粋、要約、所感、関連する話題など紹介したいと思います。今回は「第3章 忠誠」についてです。

 

洪思翊中将の処刑

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■日韓の悲劇

たとえ日本が島国でも朝鮮半島韓民族という緩衝地帯が存在せず、大陸の大勢力と直接に接していたら、われわれの意識は今と変っていたかもしれぬ。
韓民族は永遠の防禦民族だ」という言葉を聞いたが、確かに彼らはソウルを中心に日中にわたる大帝国をつくりあげたことはない。また満州族蒙古族のように中原に進出して四百余州を制圧した歴史を持たない。

おそらくこういった非膨張の歴史が、「韓民族は軍事的脅威ではない」という「感覚」、いわば無意識の前提をわれわれに持たせたのであろう。考えてみればこんなに有難い隣人はいないわけだが、脅威を感じないことがしばしば軽視・蔑視・無視を誘発することも避け得ない。

 

元寇の時は、元に強制される形で高麗が日本に侵攻した事例はありますが、
韓国の民族が、主体的に大規模に日本が侵略したことはなさそうです。

ただ、日本の場合は、主体的に大規模に日本が侵略した事例はあります。

主体的に、大規模に、侵略したという表現を認めるかは、個人差はあると思いますが、
それを認める人はいます。
侵略の事例としては、
神功皇后三韓征伐から始まり、豊臣秀吉文禄・慶長の役江華島事件、日清、日露戦争、その後の朝鮮併合です。

 

神功皇后三韓征伐は事実か否かは証明されていませんが、古事記日本書紀の両方に伝えられています。


古事記・・・日本(特に天皇家)の歴史を日本人に知ってもらうために執筆
日本書紀・・日本(特に国家)の歴史を外国(主に大陸の人)に知ってもらうために執筆

という違いがあり、両方とも神話も記載されていますが、神様の話と実在した天皇の話は分かれて述べられています。

神功皇后三韓征伐は神話であり、本当はなかったという説もあります。

ただ、古事記日本書紀ともに、神功皇后三韓征伐は実在した皇族の話として記載されています。


主流の学説の通り、一定の事実があり、脚色・改変した話と考えるのが適当だと私は思います。


ただ、より大事なのは国や民族の歴史として、古代から、神功皇后三韓征伐が伝承されていたことです。神功皇后三韓征伐など朝鮮半島が日本の支配下であったことをを後世に伝えたいと意識が強くあった

もしかしたら、古代は国境も緩く、現代以上に、朝鮮半島と日本との往来が盛んだったのかもしれまえん。


大和や九州の人にとっては、関東や東北より、朝鮮半島が身近な存在だったのでしょう。

朝鮮半島の人の日本の人の違いを強調すること、その優位性を確認することが日本人の起源の一つであり、それは韓国人の起源の一つなのかも知れません。

 

三韓征伐について

 


日本人・韓国人はお互い軽視・蔑視・無視・敵視することが多いようです。

日本と韓国はお互いを健全に評価できる時代、日本列島に住む人と朝鮮半島に住む人がお対外に健全に評価できる時代になれば、
両国、両地域ともにさらに発展すると思います。


ただ、韓国は脅威ではない。という感覚は、日本企業にもあるように思える。
繊維、造船、家電、半導体、液晶、スマホすべて、日本企業は、韓国は脅威でないと感じていただろう。、
この感覚が民族の伝統、遺伝子レベルのしみついた文化だとしたら、直すのは難しそうに感じています。

 

 

↑のWikipediaでも、洪思翊(こうしよく)氏の出自や経歴など概要は知ることができます。

■二十年後の百億円と明日の生きるためのパンの両方を考える韓国人


「そこで私は、次のように説明したのだ、(北朝鮮と)経済競争をすれば必ず勝つ。いや勝ち負けは別としても必ず立派な成果があがる――すぐでなくても。ということは、『一定時間の先に確定されたこと』があるということであり、卑近な例をあげれば、二十年先には必ず百億円のカネが入る。それはすでに確定ずみだといったようなことだ。確かにそれは確定ずみ、

しかしそれを手にするには、それまでの二十年間を生きのびねばならない。途中で餓死してはその百億円が手に入らない、だから明日のパンのために真剣に働かねばならぬ。私がアメリカに来たのは、そういう理由だ。いまの韓国にとって軍事とは明日のパンなのだとね。ところがアメリカ人ってやつは、これがわからんのだなあ……」

これは朴政権時代に、渡米して、米国と交渉した韓国軍の高官(元韓国系日本陸軍将校)の言葉です。
つまり、国家が生存するために必要な明日のパンが軍事力で、明日のパンがなければ、20年度の100億円(経済成長による勝利)もないという意味を米国に伝えても、理解してもらうのに苦労したという話です。


韓国系将校も、明日のパンのために、日本軍人として働いたが、20年後の100億円(韓国の独立)も当然考えていたと話に、山本七平氏は論じています。

 

二十年後の百億円と明日の生きるためのパンのために生きる話は、韓国の財閥の創業者の伝記(↓のブログで簡単に紹介しています)も、そんな逸話にあふれていた記憶があります。

 

 

 

朴政権時代の話が分かる本も紹介しておきます。

 

■決断への忠誠

韓国系日本軍将校は彼らはすべて、非の打ち所のない帝国陸軍軍人であったことは否定できない。陸大出、陸大志願者、金鵄勲章受章者がいるだけでなく、見
逃すことができないのは大きな比率を占める戦死者である。特に四十五期以降の下級幹部ともなると戦死者四割、朝鮮戦争も含めると、五十期・五十二期・五十七期は全員戦死で生存者ゼロである。

韓国人の意識には強烈な「民族の名誉」がある。こういう人たちはどう考えても私より何かに「忠誠」であったはずである。そこには「民族の名誉」への忠誠は確かにあったであろうが、

しかし、民族の名誉であれば、独立軍への参加など別の道もあったはずと山本七平氏は論じています。

終戦を洪中将と共にした通信隊の佐藤誠三郎氏の話として)
戦争が終ったそのとき、フィリピンの山中で、佐藤氏は洪中将に、これで韓国は独立する、洪中将も帰国されて、活躍されることでしょうといった意味の祝いの言葉を述べたそのとき洪中将は威儀を正して

「自分はまだ制服を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠誠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない」と言われた。

これは制服を着る、日本軍人と生きることを決めた自分への決断への忠誠だったと山本七平氏は論じています。

 

一民族の生存のあすのパンのために真剣に生きねばならぬ、といった生き方であったろう。
韓国人には、欧米とは違うのであろうが、われわれがもたない一種の確固たる個人主義があると、
佐藤氏は私に言われた。「ですから、欧米で見るとわれわれより颯爽として、胸を張って堂々としてますね。われわれは何となくコンベアに乗せられて、こうなったといった感じですが……」と。その通りだと私も感じていた。ある時点ある時点で、明確に一つの決断をして行く。
そして自らの決断には絶対に忠誠である。それがたとえわれわれには、過剰忠誠に見えても、忠誠の対象は自分の決断であって他者への一辺倒でも依拠でも滅私でもない。

 

洪中将の日本帝国陸軍軍人として忠誠を最後まで貫いたように見える姿勢の真意は結局わかりません。

洪中将以外でも韓国系将校で戦死した人も含めて、忠誠を最後まで貫いた人は多く見受けられます。あくまで、決断への忠誠があったというのは、山本七平氏の推測です。

 

天皇陛下への忠誠が当然であった日本人、愛国心、郷土愛といったものに支えられた日本人と違い、韓国系日本軍の忠誠を支えたものに、特別な何か、あったのでしょう。

それは虚栄心や他人からどう見られるかという視点の他律的なものでなく、自分がどう生きたいかという自律的なものがが強くあったのではと私も思いました。

 

 

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■本について改めて紹介

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■冤罪に対し、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか?

日本・朝鮮・米国の歴史に翻弄されつつも、武人らしく生きた朝鮮人帝国陸軍中将の記録。

洪思翊は、大韓帝国最後の皇帝に選抜されて日本の陸軍中央幼年学校に入学、(朝鮮王家以外では)朝鮮人として最高位の中将にまで出世した人物である。
しかし終戦直後から始まったフィリピン軍事裁判で、フィリピンの捕虜の扱いの責任を一方的に問われ、死刑に処せられた。

太平洋戦争に従軍した山本七平が、
・洪思翊中将が、アメリカをはじめとする連合国の軍事裁判の横暴さに対して、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか。
・そもそも生活に困っていたわけでもない朝鮮人エリートが、なぜ日本軍に入ったのか。
・「忠誠」とは何か。
について問うノンフィクション。

■「あとがき」からの抜粋
だが、彼ら(アメリカ)にとってはこれが「事実」で、判決は同時にこの事実の確定なのである。ではこの「語られた事実」は果して「事実」なのか。ミー弁護人のいう「時の法廷」が裁くのはこの点で、裁かれているのはアメリカであろう。そしてこの「時」を体現していたかの如く無言で立つのが洪中将である。こういう視点で読むと、四十年前に行われたこの裁判はきわめて今日的であることに気づく。

著者 山本七平(やまもと・しちへい)

評論家。ベストセラー『日本人とユダヤ人』を始め、「日本人論」に関して大きな影響を読書界に与えている。1921年生まれ。1942年青山学院高商部卒。砲兵少尉としてマニラで戦い補虜となる。戦後、山本書店を設立し、聖書、ユダヤ系の翻訳出版に携わる。1970年『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。日本文化と社会を批判的に分析していく独自の論考は「山本学」と称され、日本文化論の基本文献としていまなお広く読まれている。1991年没(69歳)。

 

洪思翊中将の処刑

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以 上