三重野康 日銀総裁の乾いた薪理論で、平成の鬼平が、『日本経済をぶっ壊す!』

 

に続けて、 

経済で読み解く日本史 平成時代1989年-2019年(上念 司著)

を読みながら、平成の長いデフレの原因となった財政金融政策を
振り返りたいと思っています。

前回は、大蔵省(旧財務省)の総量規制の問題でしたが、

三重野総裁時代の日本銀行の金融引き締めの問題を取り上げたいと思います。

 

■過ちは 繰返してはならない。

 「安らかに眠って下さい。 過ちは 繰返しませぬから」

という言葉が、広島の原爆記念公園にある「原爆死没者慰霊碑」に刻まれています。 

 東京裁判で日本の無罪を主張したインドのパール判事は、

この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。

原爆を落した者が責任の所在、過ちを明らかにしないで「過ちを繰り返してはならない」反省するのははおかしい。と非難したそうです。

 

パール判事の日本無罪論 (小学館文庫)

  

そういう意味で過ちを繰り返さないためには、責任の所在を明確にして、

日本銀行は、金融政策の過ちは繰り返してならない』
と主張することも意味があることかもしれません。

さて、本題の三重野康 日銀総裁の金融政策です。

 


■平成の鬼平、日本経済、国民生活を潰す。

 

経済で読み解く日本史 平成時代1989年-2019年(上念 司著)

の第1章 『バブル崩壊 第1節日銀不況と7つの事件』 で、
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 三重野氏が実施した金融引き締めは、日本経済を必要以上に痛めつけ、長期停滞の入り口を開くものでした。
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と三重野氏の政策を非難しています。

 

また、第2章 『ターニングポイントとなった1993年』で、

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  日銀は国民の批判をかわすために「バブル退治」などと大衆迎合的な姿勢を前面に打ち出しました。日銀の三重野総裁は狂乱状態にある株価や不動産株価を退治する「平成の鬼平」などとマスコミに持ち上げられ、いい気になっていたのです。

 ちなみに、「平成の鬼平」と命名したのは評論家の佐高 信(さたか まこと)氏です。佐高氏は、後に『週刊金曜日編集委員となる左派知識人です。本シリーズ第5巻でも指摘した通り、左派になぜか清算主義的な経済ハルマゲドンを好む傾向があります。佐高氏も日銀の引き締めを利用して、日本の資本主義を粉砕する意図があったのかもしれません。

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と「平成の鬼平」の名づけ親 佐高 信氏に対しても、批判的です。

  

「日銀デフレ」大不況 失格エリートたちが支配する日本の悲劇

 

といった著作でも、円高やデフレに対して、日本銀行の対策らしき対策、効果のある対策を実施しておらず日本銀行の罪、責任を多い指摘してます。

なお、著者の若田部 昌澄氏は、批判していた日本銀行の副総裁に2018年(平成30年)3月に就任しており、近年は、日本銀行のデフレ容認政策は完全に放棄されているようです。

 


■ 三重野康氏の「乾いた薪」理論

 

 経済を成長させるため、具体的には、消費や投資、生産や流通を活発にして、多くの人が失業や貧困を恐れず、大多数の国民が、それなりに経済的に満足した仕事や生活をできる状態を維持するには、マイルドなインフレ、物価上昇率が2%程度のインフレが望ましいとされています。

 デフレ(デフレーションの略)やハイパーインフレは避けるべきですが、マイルドなインフレは、経済成長に望ましいのです。

 

 実際に、日本銀行も、2013年以降は、「物価安定の目標」を消費者物価の前年比上昇率2%と定め、これをできるだけ早期に実現するという約束、インフレターゲットといった政策を採用しています。世界各国の中央銀行なども、物価上昇率の目標を明示するか、否かの違いはありますが、だいたい2%程度の物価の上昇を目指しています。

 

 しかし、当時の三重野康 日銀総裁時代の日本銀行の政策は、このマイルドなインフレすらも認めない、マイルドなインフレよりデフレの方がましだというような政策、

経済学の常識から外れたデタラメな政策、的外れな政策を採用していたようです。

 

 1986年10月3日の衆議院予算委員会における参考人として出席した三重野副総裁(当時)は、「マネーサプライが増えて潜在的なインフレの芽が育っている現状は、乾いた薪の上にいるようなものだ」と発言して、更なる公定歩合引下げの必要性を明確に否定しました。当時は、円高不況、日本の輸出超過といった日米貿易不均衡の問題で、内需拡大のための公定歩合引き下げが求められていました。

 

 『日本経済は乾いた薪の上にある』といして、炎上つまりインフレの危険を説いた発言として有名ですが、その後も、三重野康日銀副総裁は、総裁後も、乾いた薪の話をして、金融引き締めの必要性を主張しています。

 公定歩合とは、日本銀行が民間の銀行に貸出する際の金利で、当時、この金利が基準となり、預金や貸出の金利公定歩合が連動していました。

 

 ただ、この国会で乾いた薪の発言をした当時は、1985年、1986年、1987年の3年間を見見ると、国内卸売物価指数上昇率(企業、商取引での物価を表す指数)は、前年比でマイナス0.8パーセント、マイナス4.7%、マイナス3%とデフレの傾向を示しており、

全国消費者物価指数上昇率 も、プラス2.1% マイナス0.6% プラス 0.1%と円高より、デフレが心配されるよう状況でした。

 

 つまり、日本経済は、乾いた薪でなく、湿った薪だったのです。

 

 その後、宮沢喜一大蔵大臣の要請により、澄田日銀総裁が、三重野日銀副総裁の抵抗を排除して、景気刺激のために公定歩合の引き下げ、いわゆる金融緩和が実現します。

  

こういった1980年代の日本銀行の政策決定の経緯については

日本の金融政策(1970~2008年)

歴代日銀総裁のパフォーマンス評価 (明治大学社会科学研究所叢書)

で詳しく紹介されています。

 

日本の金融政策(1970~2008年) 歴代日銀総裁のパフォーマンス評価

では、

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1987~88年にかけて消費者物価や卸売物価などの一般物価が極めて落ち着いてい
たことを勘案するのと、物価安定を目的とする金融政策としては、澄田総裁が
敢えて踏み切った第5回目の公定歩合引下げが致命的な失敗であったとは言
い難いのである

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と著者黒田氏(明治大学教授 日本銀行の出身)は、澄田総裁の金融緩和の判断を肯定的に評価しています。

日本の金融政策(1970~2008年) 歴代日銀総裁のパフォーマンス評価

では、

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為替安定化を実現したい宮澤蔵相(および,その意を受けた行天財務官)は,
澄田総裁に直接に利下げを迫った。池田勇人元首相の側近であった宮澤蔵相
にとって,公定歩合の操作は日銀の専管事項などではなく、「大蔵省と日銀
がきちんと意思疎通してきめるべきもの」だったのであり、大蔵省の年次
では一年先輩に当たる澄田総裁に、ことばつきは極めて丁寧ながらも,容赦
無く利下げを迫ってついに約束させたといわれている

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といった事情も紹介され、当時の金融緩和が政治主導で実現したことがわかります。

 

 この政治主導、民主的な選挙で選ばれた政治家も政策を実行する。という当然のことが当時は実現できていたのです。

 そして、この金融緩和の効果もあって、日本経済は、1987年から1991年まで4年近く続いたのちにバブル景気といわれる好景気をおう歌することになり、景気の過熱が心配とされるような時代を迎えるのです。

 

なお、ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル著の同タイトルの書籍より「世界の頂点にいるも同然の日本」の意)の呼び声とともに、アメリカにおいても「日本社会に学べ」「日本に負けるな」という声が出るほど日本が世界的に評価される時代も迎えるのです。

 

■ 日本銀行の悪魔のデフレ政策

 

その後、デフレの芽が育っている現状を、インフレの芽が育っているという認識をするような人が日銀総裁になります。

日本銀行の役割は通貨の番人として物価の安定ですが、この役割を拡大解釈して、

三重野康氏は、マイルドなインフレすらも悪として、デフレを善としているような考えを持っていたかのような印象も持ってしまいます。

 

 

デフレがなぜダメかというと、『消費や投資をせずに、貯金をした方が確実にもうかる』という事態になり、消費や投資する意欲を減退させるからです。

 

なぜデフレを放置してはいけないか 人手不足経済で甦るアベノミクス (PHP新書)

 といった著作でも、デフレは決して放置、容認してはいけない事象であることを紹介されていますが、著者の岩田 規久男(いわた きくお)氏は、2013年3月20日日本銀行副総裁に就任していますが、その頃から日本銀行はデフレ容認政策といった放棄しています。2012年12月の第二次安倍内閣の成立、2013年2月の黒田日本銀行の就任を受けて、岩田氏の日本銀行副総裁の就任です。日本がデフレ基調が脱する頃です。

 

 消費をしないという理由は、デフレとは物価が下がる事象、つまり、お金の価値が上がり、モノやサービスの価値が下がっていく事象です。200万円で自動車を買わずに1年待っておけば、190万円で同じ自動車が買える。かつ、200万円を銀行に預金をすれば、1年で10万円の金利がつく。こんな状況だったら、1年待って、自動車を買う方がお得ですから、今、自動車を買う人はいなくなります。

 日本銀行の金融緩和して、金利がつかなければ、モノやサービスを買う魅力も少しは上がりますが、地価下落、地価下落に伴う信用不安といったデフレの懸念がある中で、金融引き締め、公定歩合を高めに設定していたのです。

 

 自動車が売れないので、自動車は値下げする。値下げのために、自動者産業で働く人の給与も下げる。給与が下がる人が増えてますます自動車が売れない。といった悪循環、デフレスパイラルに陥り、デフレは不況を超えて、恐慌といった事態を発生するのです。ちなみに昭和恐慌は、デフレスパイラルによる恐慌と言われています。

 

 ハイパーインフレと言われる急激なインフレーションもさげるべきです。インフレとは今日が100円で買えたモノが来月には200円に、1年後には1000円となっているような、急激な物価上昇ですが、こんな状況であれば、安心して、生産や消費などの経済活動はできません。

 

じゃあ、どの程度のインフレ、物価上昇なら望ましいかというと、2%ぐらいが望ましいと言われています。なぜ、2%が望ましいのかは、世界各国の経済運営の経験則、知恵といってもいいかもしれませんが、

 

1%の物価上昇だと、2倍の物価になるまで70年かかり、20年で、1.2倍の物価になります。

2%の物価上昇だと、2倍の物価になるまで36年かかり、20年で、1.5倍の物価になります。

3%の物価上昇だと、2倍の物価になるまで24年かかり、20年で、1.8倍の物価になります。

 

物価を給料に置き換えれば、毎年2%位は上昇すれば満足いくし、物価も36年で2倍になるぐらいだったら、安心して生活できそうで、多くの人が納得いく水準なのかなと思います。

 

興味がある方は

インフレとデフレ (講談社学術文庫)

 もご一読ください。

世界恐慌、ドイツ・ハイパーインフレ、昭和恐慌、リーマン・ショックといった事象なども解説しています。「格好の経済学入門にして提言の書」と紹介されていますが、経済学を学ぶ人のための本なので、すこし難しいかも知れませんが、理解が深まると思います。

 
■誰も、平成の鬼平を止められなかった

 

 三重野氏は就任直後から急激な金融引き締めに踏み切る。1989年12月に日本銀行総裁に就任すると、その直後に、公定歩合(当時の政策金利)を3.75%から4.25%に引き上げた。その後、90年3月に5.25%、8月には6%に引き上げます。バブル退治に邁進する姿は平成の鬼平と、マスコミからもてはやされました。

 実は、1990(平成2)年の正月明けから始まった3ヶ月で25%の暴落と、7月から8月にかけては、40%暴落し、経済の先行指標と呼ばれる株式市場はすべに大暴落をして、地価も下落気味で、インフレの懸念など全くなかったのです。

 その後も、日本銀行は、高めの公定歩合を維持し、金融引き締め的な政策を実施させて、日本にデフレ不況の芽が育つことになります。

 金丸信自民党副総裁は、1992年2月、バブル崩壊後の不況に際して「日銀総裁の首を切ってでも公定歩合を下げさせろ」と発言し、当時の日本銀行の金融引き締め政策を批判していました。

しかし、『平成の鬼平』とマスコミが賞賛され、英雄視されている三重野氏を敵にするような行動は当時の政治家では無理でした。

 消費税増税リクルート事件で政治不信、支持率低下で、選挙も苦戦していた、与党の政治家は、さらに支持率を下げるような行動が難しかったのです。

 『政治主導、民主的な選挙で選ばれた政治家も政策を実行する。』という当然のことが当時は実現できていなかったのです。

 

 マスコミから賞賛され、英雄視されている人、その人の政策は、批判されずに修正もされにくいでしょうから、独善的な誤った政策になることも多いようです。

 マスコミから賞賛された人には要注意ということでしょう。賞賛された人が、選挙で選ばれるような政治家であれば、まだましです。選挙の過程で多くの人と接し、国民の気持ちもくめることもあるでしょう。

 しかし、マスコミに賞賛されている人が、選挙の洗礼を経ていない学者や官僚であれば、その人の政策は本当に要注意でしょう。

 

 なお、三重野康氏は、1994年12月 に、日本銀行の総裁を退任しますが、その後も、日本銀行は、黒田氏の総裁就任まで、デフレ容認のような政策を実行し、日本経済の足を引っ張り続けます。

 

平成金融史 バブル崩壊からアベノミクスまで (中公新書) 

では、

首相官邸、大蔵省(財務省)、日銀、自由民主党の4つの機関の考え方の差が大きく、そのパワーバランスによってどういう政策決定がされたかを具体的な人名を交えて描いていますが、当事者によるキーパーソンによる貴重な証言を交え、金融失政の三〇年を検証しています。失政の原因は、日本銀行に大きいことも感じられるのではないでしょうか。

 

以 上 で す。