洪思翊中将の処刑 山本七平 著を読みました。その抜粋、要約、所感、関連する話題など紹介したいと思います。今回は「第4章 出生伝説」についてです。
■前回のブログ記事
■出生伝説
その少年時代は三度の食事を二度にし、しかもそれを粥にするという日々であったという。
洪思翊(こう しよく)中将は、貧農の出身であったらしい。両班(貴族士族階級)の家柄でしたが、いわゆる落ちぶれた状態で、食うものに困るような文字通り貧農(当時の一般的な農民)の出身でした。
韓国の貴族それも特に高貴な家柄の出身で、李王垠殿下の御学友として来日したというのが、その部隊での〝定説〟だったそうである
「高貴な家柄の出身」としか思えぬ風丰容姿と挙止、それが温和な性格と深い教養に裏づけられて、粗野という要素が皆無だったその日常によるのであろう。
伝説はしばしば、こういう意味では真実を伝えるものであろう。
と貧農出身でありながら、高貴な家柄の出身と思われるだけの人格だったようです。
↑のWikipediaでも、洪思翊(こうしよく)氏の出自や経歴など概要は知ることができます。
教育は専ら漢学であり、同期生で親友ともいえる和知鷹二中将の「追憶」の一節を読むと、これが洪中将の人格形成の基盤であったように思われる――「君は資性英俊、責任観念の強い人格者で、学業の成績も優秀だった。とくに、漢学の素養は抜群、四書五経など棒暗記しておられた。
同区隊の辻君が病死のとき、追悼の漢詩を即詠して一同を感激させたこともあった。明治四十五年五月、明治天皇行幸のもとに行われた中央幼年学校の卒業式に、君は韓国出身生徒の首席として恩賜品を拝受された」と。そしてその教養が完全に自己のものとなっていたことは、生涯を通して「君子ハ窮スレドモ乱レズ」であったことにも表われている。
この漢学の教育は、当時の寺子屋のような場所で行われた通常の教育だったらしい。
普通の貧農の次男として、働きつつ漢学を学びつつの日常を過ごた結果が、生涯を通して「君子ハ窮スレドモ乱レズ」らしいです。
■一切の変転に動揺せず
韓国は1881年に近代的な軍隊組織を導入し、その後、1907年までに4度もその近代的な軍隊を解散しています。日本、中国、ロシアの列強の外圧や内政の混乱があったためです。
大韓帝国の陸軍武官学校に入学してい19歳ですから、4度目の解散の翌年1908年です。
翌年1909年韓国併合で大韓帝国自体が軍隊も含めて消滅します。
現在でいうと、4回倒産した会社で、来年倒産するかもしれない会社に入社して実際に来年倒産した。という話かも知れません。
その後、別の会社に吸収され、その中で昇格を重ねたような人でしょうか。
二十七年間に創設・解散を四回繰り返した軍隊を志すということは、明治以来一度もその例がない帝国陸軍の士官学校を目指すのとは、全く別のことであって不思議ではない。それは、あらゆる変転を予期しての決断だったはずである。
「何かを深く期するが如く一切の変転に少しも動揺しなかった」。これが、その青年期から生涯の終りまで、洪中将に接したすべての人がもつ印象だが、その内実は一体何だったのだろうか。
戦後の日本的経営の特徴の一つが、終身雇用と言われましたが、実際に学校を卒業した後、一つの会社に勤めて、定年退職まで、勤務するという人は、案外珍しかったのではないかと思います。
そもそも40年間同じ一つの会社であり続けるということも難しいですし、
40年間、リストラなどなく、40年間勤務できるという状況も難しいですし、
何より、本人が同じ会社に勤務するという意思は持ち続けるということは難しいことです。
そんな難しいことが3つ重なるわけですから、一つの会社での終身雇用というのは神話、伝説なのかも知れません。
社歴が長い人ほど、私は会社の変転に動揺しないように思います。
経験値が高いという点もあれば、本人が同じ会社に勤務するという強い意志持ってるからかもと思います。
洪中将の生き方から、安易に転職せずに、入社した一つの会社、勤務先で仕事を続けるということにも価値を見るべきと感じました。
■ダブスコの暴落にも動揺せず(長期投資で身につく免疫)
ダブルスコープの3連ストップ安もあって、2022年9月下旬に大暴落しました。
▼ダブルスコープ3連続ストップ安後の暴落(2022年9月)
9月15日終値:2,979円 ⇒ 9月22日終値:1,550円
下落幅 1,428円 下落率 -47.9% 下落期間 4日
▼ダブルスコープ3連続ストップ安含む9月の暴落(2022年9月)
9月15日高値:3,175円 ⇒ 9月30日安値:1,171円
下落幅 2,004円 下落率 -63.1% 下落期間 9日
ショックという言葉では表現が足りないような短期間での大暴落です。
この暴落は私もまったく想定外でした。ただ、特に動揺はなかったです。
下がったので買い増ししようかなと考えた位です。
私がダブルスコープの株と購入したのは、2020年2月4日です(株価773円)。
2020年2月4日始値 894円から、旭化成の特許侵害訴訟の開示で
株価は終値735円まで下がりました。この日が私の最初の取引日でした。
それ以来、暴落と呼べる下落は何度かありました。
コロナショックの時は旭化成の特許侵害訴訟の悪材料もあり、2020年1月の高値1184円から2022年4月の安値262円まで下落しています。下落幅は-922円、下落率は-77.8%です。私がダブルスコープ株に投資した時期です。
2021年1月の高値1290円から2022年5月の安値610円と大きく下落したときもあります。下落幅-680円、下落率 -63.1%です。
新株式発行公募増資(900万株、約60億円、2021年4月実施)、業績の下方修正、継続注記企業の開示などあり、大きく下げました。
私がダブルスコープのブログ記事を始めたのは2020年5月です。
900円台の株価が700円台になるように、2割程度下落することも何度かあったような気がします。
私は洪思翊氏のように漢学の素養はありませんが、ダブルスコープの暴落、下落にも免疫がつきました。
長期間保有すると、こういった経験を経て株価の下落、暴落があまりストレスに感じないのもメリットです。感覚が麻痺して正常な判断ができなくなっている恐れもありますが。
のブログ記事で紹介している 長期の個別株投資を考えている人におすすめしている本に
があります。
『第三章 10倍株はこうして見つけろ』に
過去に10倍、100倍、1000倍、万倍となった株を紹介しています。
ソニーやトヨタなどだれでも知っている会社が、10倍、100倍、1000倍、万倍となった過程が紹介されています。
結局、株式投資で高い成績を上げたい場合は、優良成長株の長期投資が大事だと気づかされます。10倍株を探すより、10倍株まで保有することの方が難しいのかもしれません。たとえば、ユニクロやニトリなど誰もが知っている企業になってからも10倍になっていると思います。10倍株、100倍株は、投資することにより保有することの方が難しいと思っています。
■洪中将の無言
洪中将は戦犯法廷で一言も言わず、無言を通し、一切の弁明もしなかった。
おそらく、氏のプライド(誇り)がそうさせたと山本氏は推測している。
「(韓国独立のために努力したことは、今は名誉のことだが)だから言わないのでしょう。釈明と受けとられることと、時勢がこうなったら急にそういうことを言い出したと思われること、それはこの人たちの誇りが許さないことでしょう」
これは旧日本陸軍韓国系将校が、抗日運動家を陰で支援していた話をなぜ語らないのか、韓国の歴史学者が山本氏に解説した話である。
私は主にダブルスコープについて、株式投資の観点からブログ記事を2020年5月以降、継続的に投稿しています。
株価の上昇下落とともに、ダブルスコープの評価は大きく変わりますが、私は株価で評価はせずに、その企業の実態(ファンダメンタルズ)で評価するように心がけています。
株価で評価を一変させる人が多いなと、ここ半年感じますが、そういう人は私はあまり好きではないです。
洪中将のように筋の通った生き方にあこがれます。
とりとめのない内容ですが、以上です。
■本について改めて紹介
洪思翊中将の処刑 | 山本七平 著はAmazon Kindleでも楽天 Koboでも読書可能です。
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■冤罪に対し、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか?
日本・朝鮮・米国の歴史に翻弄されつつも、武人らしく生きた朝鮮人・帝国陸軍中将の記録。
洪思翊は、大韓帝国最後の皇帝に選抜されて日本の陸軍中央幼年学校に入学、(朝鮮王家以外では)朝鮮人として最高位の中将にまで出世した人物である。
しかし終戦直後から始まったフィリピン軍事裁判で、フィリピンの捕虜の扱いの責任を一方的に問われ、死刑に処せられた。
太平洋戦争に従軍した山本七平が、
・洪思翊中将が、アメリカをはじめとする連合国の軍事裁判の横暴さに対して、なぜ弁明もせず絞首台に上ったのか。
・そもそも生活に困っていたわけでもない朝鮮人エリートが、なぜ日本軍に入ったのか。
・「忠誠」とは何か。
について問うノンフィクション。
■「あとがき」からの抜粋
だが、彼ら(アメリカ)にとってはこれが「事実」で、判決は同時にこの事実の確定なのである。ではこの「語られた事実」は果して「事実」なのか。ミー弁護人のいう「時の法廷」が裁くのはこの点で、裁かれているのはアメリカであろう。そしてこの「時」を体現していたかの如く無言で立つのが洪中将である。こういう視点で読むと、四十年前に行われたこの裁判はきわめて今日的であることに気づく。
評論家。ベストセラー『日本人とユダヤ人』を始め、「日本人論」に関して大きな影響を読書界に与えている。1921年生まれ。1942年青山学院高商部卒。砲兵少尉としてマニラで戦い補虜となる。戦後、山本書店を設立し、聖書、ユダヤ系の翻訳出版に携わる。1970年『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。日本文化と社会を批判的に分析していく独自の論考は「山本学」と称され、日本文化論の基本文献としていまなお広く読まれている。1991年没(69歳)。
以 上